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「男であることの困難 恋愛・日本・ジェンダー」小谷野敦◆このころがよかった このころから「もてない男」の時期はよかった。飛ばしてる。そのあとの「恋愛の超克」か何かを読んだら、「あれは確信犯だったのだ。自分が童貞だなんて実は一言も書いてない。浅はかな読者はそう思い込んだだろうが、そう思われるように書いていただけなのだ、ハハハ」みたいなことを書いててダメだった。それでも私はこの人、好きだ。そういうとこも含めて人間臭くていい。読んでると「あーほんとに女を知らないなあ」と思うのだけど、そういうのをそのまま出しちゃうのがいい。 これを読む前、たまたま作田啓一の「個人主義の運命」を読んだところだったので、すっかり夏目漱石の「こころ」づいてしまった。私としては「色っぽい内容だなあ」と思っていたのだが、わまりに聞くと世間は「こころ」的ホモソーシャル的シチュエーションに満ちていて、へーえ男の子って…とすっかり楽しくなってしまった。 この本の中では何といってものちの「もてない男」に繋がる流れのエッセイ2本、「私的フェミニズム論―私はフェミニストになったのか、ならなかったのか」及び「男であることの困難」が私怨まき散らして飛ばしまくってて面白い。特に「私的フェミニズム論」のほうは、思わず大きく頷いてしまう点が多々あり、あー鋭いなあ、あー繊細だなあとしみじみしながら読んでしまった。もちろん全部同意するわけじゃないけど。 一応ここは在日サイトということになっているので(ヤフー在日のとこに登録してるし…)、文句を一発。「日本人は『韓国・朝鮮』の呼称に悩んでいて、『在日コリアン』などという表現を最近よくみかけるが、あの地域は長いこと『朝鮮』だったのだから朝鮮でいいのだ。『在日』だって、朝鮮系日本人と言えばいい」ここでゴーマンかましてよかですか。長いこと朝鮮だったのだから朝鮮と呼べばいいのなら、東京と呼ばず江戸と呼べばいい。同様の理由でゴチエイ氏なども「中国と呼ばずシナ(今やATOKも漢字を知らない)と呼べ。中国というなら英語でもセントラルランドとか言え」と無茶苦茶なことを言っているが、ナンセンス甚だしい。国の呼称は諸般のややこしい事情を含み込んだ上での呼称なので、そういう事情をすべてすっとばして「だって僕ずっとこういう風にしてたし〜」などと言うのは小学生並に自己中の思考停止だ。友達や同僚が結婚して名前変わったら、彼女の事情を考慮して名前変えて呼ぶだろう。同じじゃないか。 「在日」を朝鮮系日本人と呼べばいい、なんていうのはもう無知の露呈以外のなにものでもない。帰化してたら朝鮮系日本人で結構だが、在日というのは基本的に韓国・朝鮮籍を持った人のことで、慣用的に帰化した人も含めて「在日」と呼ぶ、そういう特殊な言葉なのだ。何で特殊かというと、日韓の歴史が特殊だからだ。その特殊さを無視しようとするのは、やっぱり小学生並の自己中の島国根性といえる。在日コリアンでいいのだ。韓国語も「ハングル語」でいいのだ!(私は言わないけどね) あ〜久しぶりに怒った。でも好きですよ小谷野さん。というか、上記のことは本論とはあんまり関係ない、註におけるたった3行の話なので。フェミニズムに対する疑念については、私もかなり考えを同じくしてます。カナダで師事した日本人の先生が「日本女性は虐げられてなどいない。彼女らは楽しんでいる」と発言したとあり、私も概ねその通りだと思うのだけど(男尊女卑の強い儒教社会である韓国の方がずっと、フェミニズムの根付く可能性は高いと思う)、そうはっきり言うのはものすごく勇気のいるご時世。「知識人」をやってる人にとってはなおさらそうだろう。しかし小谷野氏はのちに考えをやや改めたそうで、「日本人カナダ人取り混ぜて何人もの男と関係を持ったという悪名の流れていたある女子学生が、とても性格のいい子であるのを発見し、目から鱗が落ちるような思いをした」なんて書いているところがこの人の限界なのだと思う。くだらない。あれ?誉めるつもりだったのに。 日頃どうも矛盾に感じることがある。私はけっこうリベラルな方だと思うし、リベラルな人の言ってることのほうが理屈は通ってると思う。でも個別の人柄を見たときには、何とも言えない疑念が沸いてしまうのだ。最近、若い男の間でもいわゆる「保守」を標榜するのが流行みたいになっていて、「おれは保守(または右翼)だかんね」みたいに気取って言う人が増えている。私はそういう言い方を聞くと、「安全な場所から何ゆうとるんじゃボケ、このオタクが」と、ついムカッとしてしまうのだが、なんか結局そういう人の方が話しやすい部分があるということに気がついたりもしてしまう。 これは時代状況とかが絡んでいるので、石原慎太郎の時代なんかとは違うと思う。今そういうことを言う人は、結局弱い部分を抱えている人、弱者が多いと思う。だから強いもの(強い日本とか?)に自己同一化したい。男なら、小谷野さんじゃないけど、断然もてない男が多いはずだ。誉める気はないけど、そういう人は繊細な部分を抱えてるんだよね。小林よし○り好きの保守オタクも、きっともともと繊細な少年のはずだ(と思う)。 翻って左翼とかリベラルな人って、おっしゃることはごもっともだけど、個別事例を見れば無神経のザルが多い(私の知ってる限りよ、もちろん)。自分の正義を信じて疑わない強者だからだろうか。そりゃ弱さを意識してる人の方が話しやすいのは当然なのだ。そう思えば、そういう人たちにも優しくなれるってもんだ(ほんとかな?)。 小谷野さんを弱者だと言う気はないけど(でも自分のことを保守と位置づけているのは確か)、いつも自分を下に置く姿勢がいいのよね。例えばこんなの。「私は、自分が徳川時代に生まれていたら、きっと貧農の息子か何かで、まともな教育を受けることもなく惨めな一生を送っただろうとしか想像できない。さまざまな弊害を認めながらも、私が『近代』を否定できないのはそのゆえだ」 中学の時からアメリカにホームステイしてるんだから、結構ええとこの子だったんだろうと思うんだけど、それでもそういう風に持っていく。あるとき私の知り合いが「あーあ、明治時代に生まれてたらよかった」と言ったので、私が「明治時代に生まれてたら農民やで」と言うと彼は数秒間考えてから、「そうやな。何か自分は帝大生とかの気がしてたけど、たぶん農民やな」と言って笑ってた(ごめん。例に出しちゃった。だって面白かったんだもん)。そういうことなのだ。 「恋愛の超克」は落胆させられたけど、その後出たエッセイ「軟弱者の言い分」を読むと、またこのいじけ根性(すいませんすいません)が再燃してたので、おお、いいぞ、と応援する気分になった。頑張ってほしいです。 |