花猫がゆく

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「発情装置」上野千鶴子

◆色ボケ

 不愉快になるのわかってたから今まで読まなかったけど、マンガ論が載ってるのでやっと手に取る。1998年出版。セックス?セクシュアリティ?そういうのに関して書いたものを集めた本。浮世絵、写真、タントラ仏教、少女マンガ、同性愛etc. 良くも悪くも「色ボケ」って感じ。

 的確だと思うところもあるけど、読むのしんどかった。しんどかった部分を書くのはタルいので、ワタシ的に的確だと思ったところを三点。

 その一、少年愛マンガについて。
「しかしここに一つのトリックがある。少年は性を持った身体である。同じように成熟前の持った存在でも、少女が性を封じられた身体であるのに対し、少年は性にオープンな「誘惑者の身体」を持っている。男同士の身体的な性愛を描くことで、少女マンガは奪われたセクシュアリティをとり返すかのように、にわかに性的に攻撃的になる。「見る/見られる」のジェンダー・ポリティックスを逆転し、男を身体性に還元して完全に対象化するという策略である。しかも男同士の同性愛を描くことで自分自身はジェンダーの障壁(バリヤー)の手前で、絶対安全圏に身を置いていられる。(略)これは報復なのだろうか?」

「少年愛マンガでは、主人公の少年は性的な誘惑者として登場する。彼は精神的な存在である以前に、身体的な存在であり、少年愛は魂の触れあいであるより前に、肉体的な触れあいである。少年愛マンガは、それ以前の少女マンガではタブー視されていた大胆なベッドシーンを描いた点で画期的であった。彼らは言葉で愛を告げるより前に、からだで触れあう。身体的な性愛の優位は、精神世界の中に閉じこめられてきた少女たちにとっては、少年愛の世界ではじめて自由に表現できたものであった。」

 えー、この小論の初出が1989年11月。時代としてはこんなもんなんだろうか。いわゆる「ボーイズラブ」ものが商業誌上で爆発したのがこれくらいの時期だったと思うけど。今どき「少年愛」なんて言葉、カビが生えてるし、古いのは否めないけど、把握の仕方は的確だとは思う。かなり様変わりしている今の状況でも、ここからの発展形なだけで、大筋変わりない。しかし24年組とか少年愛マンガって、70年代に花開いたものだろう。それを団塊オヤジどもがさんざん誉めあげて評価が定まったあとでこういうこと書くというのが何とも。中島梓の評価が低いところはさすが。

 その二。「フロイトの間違い」
「フロイトのパパとママとボク(フロイトにとっては、いやフロイトに限らずこの時代のすべての男性研究者にとっては、エゴとは男性のことだ)の三角形の物語は、今となっては、らちもない妄想の産物だと思える。それにしても、このはた迷惑な物語の、二〇世紀における影響力はなんと大きかったことか!
 すべての息子はその母親と近親相姦の欲望を抱いているとか、父親はそれに対して去勢恐怖をもって母子関係にくさびを打ちこむとか、ママを断念した息子の頭のなかには、超自我と言う名前の『小さなパパ』が棲みつくとか、いったい誰が、そんな荒唐無稽なつくり話をつくり出し、そして信じたのだろう。(略)
 フロイトの仕掛けは用意周到だ。『無意識』という、誰にも見ることも触れることが(ママ)できないものを発明したために、これが無意識なんだと言われれば、証明も反証もあらかじめ封じられている。あとは『信じる者は救われる』。その無意識の中身にはリビドーという性的欲望がいっぱい詰まっていて、何を見ても性的に反応することになっている。ペンを握れば男性器を、靴に足を入れれば女性器を。人間を色情狂の動物にしてしまったのもフロイトだ。何か崇高なことをすると、『性欲の昇華』という概念が待っている。この解釈装置からは、逃れることができない。」

 思わずパチパチパチと手を叩いた。ほんとそうだよ〜。単に笑える奇論にすぎないものを、なんでこんなに大々的に持ち上げられてるんだ!ってずっと思ってた。「無意識という大発見をした」とか言われてるけど、だからって何でもかんでもペニスにしなくてもいいだろう。フロイトのすごいところは、自分の個人的事情をすべての人間にあてはまることとして大風呂敷を広げたことだよね。

 その三。これはわりと恐る恐る書かれていることだけど。
「そしてわたしは、男性同性愛がミソジニーと結びつくかもしれない疑いを捨てることができない。」(p.239)
「ホモソーシャルがミソジニーと結びつく論理的・実践的必然性は、多くの研究によって明らかにされたが、ホモセクシュアルがミソジニーと結びつかない論理的・実践的必然性はどこにあるだろうか。これについては、ゲイ・スタディズに答えてもらわなければならない。それが保証されない限り、フェミニズムとゲイ・スタディズがともに闘うことは、むずかしいだろう。」(p.246)

 これは私も常々思っていたことで、だから私はゲイの男性にまとわりつく女(オコゲ?)があまり好きではない。というか、見るのが辛い(まあ、本当に「友達」な人もいるだろうけど、と一応いいわけしておこう)。女性が観念的にゲイの世界で遊んだり、ゲイに憧れたりするのは実に故あることで、これはしかたがない。ゲイの人には迷惑に思う向きもあるだろうが、これに関しては、ゲイの人も逆にそういう女を遊んでやれ、おちょくってやれ、と言うしかない(なんで女で遊ばないといけないのだ!と思うとしたら、完璧なミソジニーですね)。

 あとの方の引用は書き下ろしなので、1998年。その後ゲイ・スタディズはこの疑問には答えたのだろうか。それとも「聞かれちゃまずい」と黙殺したのだろうか。気になる。

 ???と思った部分をひとつだけ。
「わたしは東電OL殺人事件というあのスキャンダラスな事件報道のことを思いうかべています。(略)「なんのために?」と不審がるほど、彼女の生活は理解できないものではありません。男があとくされのないセックスを求めるのと同じように、女にもあとくされのないセックスを求める欲望があり(略)、その『お互いに関係しないですむ』セックスの合意が、男にとってはカネを払い、女にとってはカネを受け取る、という非対称性をもっていただけだ、と考えることができます。女が不特定多数の男とあとくされのないセックスをタダでしたら『インラン女』と呼ばれ、カネを受け取ってしたら「売女」と呼ばれる…のもヘンなものではないでしょうか。」

 「と、考えることができます」って、そんな決めつけてしまっていいのか。あの事件報道後、「東電OLは私だ!」「東電OLの気持ちがよくわかる」と言い出す女が続出したらしいが、私はわからんぞ、はっきり言って。それって個人差の問題をうっちゃってないか?彼女のこと何も知らないのに、大企業の専門職で売春してた、ってだけで一緒くたにしてしまうのは乱暴じゃない? 本人に聞いたわけでもないのに決めつけていいのか? せめて「仮説として私はこう思うが、もしそれが正しかったとして」くらいの但し書きをつけて欲しいものだが、東電OLに関してはみんな(男も女も)舞い上がっちゃって、乱暴に決めつけてしまうきらいがあると思う。

 図書館で借りたこの本、妙に女臭い。いや、ほんとに化粧品みたいな匂いが本にこびりついていて、むせそうになるくらい。それが70ページくらいのところで匂いが消えた。この辺で読むのやめたのかな。私って、ミソジニー?

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