花猫がゆくblog韓国覚え書き韓国エッセイ読書メモ過去の日記 |
「〈在日〉という根拠」竹田青嗣◆在日の名前について アメリカ人の研究者が在日文学について調べようと思ってるとのことで、お呼びがかかった(在日の生の声が聞きたい、ってことでしょうか)。それじゃ在日文学ってものを少しは勉強せんとあかんかな、というわけで、この本を図書館で借りてきた。予想はしてたけど、もーほんと退屈な本だった。 柳美里嫌い、「GO」嫌い、青春小説嫌い、吉本ばなな嫌い、大江嫌い、村上春樹大嫌い!とわめいてたら、「じゃああんた、一体誰が好きなの」と問われ、うーんと考えた挙げ句、外国人も好きだろうという予測のもと、三島由紀夫と答えたら、大顰蹙を買ってしまった。なぜだかさっぱりわからず、そのことを国文出身のN本さんに話したら、笑い飛ばされた。 ミラン・クンデラ好きのロシア人の知人は三島が好きだった。彼は「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」を絶賛してた。もしかしたらヨーロピアンとアメリカンの違いがあるんだろうか。文化系と理科系の違いか?(ロシア人は物理学者だった。その世界ではかなり有名らしい) いや、二元論はいかんね。 それはさておき。 いい人なんだろうと思う。あとがきにこんな風にある。長いけど引用。 「ところで最後に、自分の名前のことについて少しだけ書いておきたい。竹田青嗣というのはいわゆるペンネームであって私の本名ではない。私はこれを太宰治の小説の題名(『竹青』)から借用したのである。文章を書き始めたころ、〈在日〉の知人や日本人たちからも、君は在日朝鮮人二世なのになぜ本名を使わず日本名を使うのか、とよく聞かれた。その頃は私の方でも、そういう質問に対する答を様々に練り上げていて、どういう聞かれ方をしても困らないようにちゃんと整理したうえで持ち歩いていたような気がする。けれど、今は要するにひとつのことしか言えない。当時私のまわりでは(今でもそういう空間はどこかに存在しているだろうが)、在日韓国人たるものは本名を名乗らなくてはまともな人間とはいえない、というような雰囲気が色濃くあった。私はそういう言説に強く反撥して、いわば肩肘を張るつもりで竹田青嗣という日本名のペンネームを使ったのである。その頃の私の考えでは、本名を名乗ることは自分の本来的な自己認知にとって一つの蓋然的な要素にすぎないのに、あの言説では、それが逆転されて、本名を名乗ることこそ(注・「こそ」に傍点)”真の主体性”へ至るための唯一無二の絶対条件であるという具合になるからけしからぬ、というつもりだった。けれど、今から考えてみれば、結局、それまでずっと日本名で通してきたのに、文章を書く段になって(「文章を書く段になって」に傍点)突然”本名”を使うというようなことが、咽になにかがつかえたような、奥歯にものがはさまったような感じで、どうしてもできなかったということだったように思える」 ハー長かった。でも名前に関するこのこだわりには私も同感。同じように思ってた。日本名を使わざるを得ない状況を生きているのが在日なんだから、あえて日本名を使って何が悪いんですか。 たぶんいい状況ではあるんだろうけど、最近なぜかやたら目につくのよ、本名が。特に若い子のあいだで。アイドルにまで本名が登場する始末。いい状況ではあるんだろうけど、なにか私は忸怩たる思いがあるな。竹田氏のように「真の主体性」とまでは叫ばれる時代ではないけれど、日本名を名乗っている、しかも帰化もしない在日が、時代の残滓として「浮いてしまう」怖さを感じる。「あれは何だったの〜」みたいな。 要するに、本名を名乗ることが妙にポップに、カッコよく写る時代になってしまった。なんてことだ! とか何とか言いながら、私が本名を使わない本当の理由はもしかして、自分の名字が韓国で最も「平凡」な名字だからだったりする(かもしれない)。もし自分の名字が「姜」だったりしたら、大喜びで本名名乗ってたかも。だって姜先生と同じだもん♪って。 因みに竹田青嗣の本名も「姜」らしいし、岩波新書で「韓国音楽ノート」とかいう本(めっちゃつまらなかった)を出してた東大出身の人も「姜」。「姜」にはインテリが多いのか? (2007年4月追記) |