花猫がゆく

blog

韓国覚え書き

韓国エッセイ

読書メモ

過去の日記

2001年5月〜7月

7月29日
 斎藤美奈子が梁石日について、こんなことを言っていた。「梁石日の小説はどうも相性がわるい。出てくる女がまたイヤな女じゃん。『血と骨』も好きじゃなかったし。在日朝鮮人に対する血肉のつけかた、人物造型が、絵に描いたようで…。出てくる女は安っぽいし、男はマッチョ。彼の小説はいまいち入っていけない。すみません」

 思わず拍手。その通り!ほんとに人の言いにくいことをはっきり言ってくれて気分がいい。在日問題って日本人には鬼門であって、在日のことを悪く言うってほとんどタブーだもん。この対談相手だって、「我々は在日の歴史のことを知らなさすぎるが、それは恥ずかしいことだ。忘れてはいけないということを、この小説(梁石日の)は突き付けてくるう〜」なんて力入りまくってるし。

 在日云々の前に、梁石日ってマッチョすぎてどうもいかん。マッチョな人間って信用できないんだよ。あいつらは肝心なときに責任取らずに逃げ出すし、世界を自分の見たいように歪曲してしか見ない。責任逃れが好きで卑怯。今の時代にマッチョであるってことは、多分そういうことなんだ。

7月27日
 母親にバス事故のことを言うと、取り締まりは昔もあった、と言っていた。何でもかなり以前にバスに乗っている時、大おば様が夫に薬を飲むための水を渡すために通路を歩いていたら、それを見つけた警察官にバスを止められ、随分長い間ネチネチとおこられたらしい。要するに事故か何かがあると取り締まられ、ほとぼりが冷めると止めるらしい。ああ韓国人。

7月25日
 なんと、韓国名物ポンチャックバスが大惨事に遭ってしまった。詳しくはこちらの末尾参照(ごめん。アンカーのやり方がわからんのよ)。

7月23日
 今とても悩んでることがあって気が滅入る。日々消耗するので全身じんま疹のようになった。かゆ〜い。

 昨今クズ小説ばかり出回ってるせいか、私の感受性に問題があるのか、小説が何も面白くない、と言うと、プロレス好きのトモダチ(男)は「オレは昔の小説は面白いと思う」と言う。えー、でもそれはアナタが男だからで、女が読んだら昔の小説ってかなりムカつくんちゃうん?明治大正(そのあとも)の小説に出てくる女の描かれ方ってとても自己投影できるような代物じゃないし、お話自体は面白かったとしても、あちこちで「ひっかかって」しまって楽しめない、と言うと別のトモダチ(女)が言う。「現代女性から見ると昔の小説なんて読めたもんじゃない。そしていったんそういう読み方をするようになると、読めるものって何もなくなってしまう」。

 昔の男を夢見られる男は幸いなり。女の見る夢は、すごくムズカシイ・・・。男の子が生きにくい時代になりつつあるけど、もしかしたら「ざまあみろ」と言っていいのかもしれない。だけど女の子が生きやすくなったといって、日本は美しくなったか?ますます醜くなっただけじゃない?

6月25日
 「韓国のキリスト教」柳東植
 なぜ韓国ではあんなにキリスト教徒が多いのかずっと不思議だったので、参考になった。やはりカギは朝鮮民族は外来文化をダイナミックにアレンジして自文化に取り込んでしまうってことではないだろうか。聖書を独立運動として解釈し、それを独立運動に生かしてきたのだから。
 それにしても、韓国人が食えないのは、手前味噌すぎることだと思う。あそこには「尊敬」はあっても「謙譲」という概念は存在しないのではないか。
 この本ではカトリックとプロテスタントの分け方が曖昧でわかりにくい部分があった。著者はたぶんプロテスタントなんだと思う。というのは、誉めるときには「プロテスタントは」と出てきて、そのあとすぐ「これだけの学校がキリスト教徒によって設立された」なーんてどっちかわからん書き方に変わったりするから。
 100万人も集まるキリスト教徒の大会を何度もしちゃう、韓国人ってやっぱり「大会」好き。

6月22日
 クチナシの花の濃厚な香り。

 バロウズの翻訳などしている山形浩生が、宮崎哲弥『新世紀の美徳』についてこんなこと書いてた。ほらー私と同じよーなこと言ってる!(カースト制を連想するあたりも)と思って喜んだので、引用。

 (以下引用) ぼくは一応、宮崎哲弥は評論家として信用はしている。でもかれが最近特に対小林よしのり戦で使うようになった論法はすごくあやういし、かれがやろうとしているような論議のベースとなるものではない、と思うのだ。その論法とは「生は幸不幸をこえてそれ自体に価値がある」というものだ。一見もっともな議論だけれど、これはそのままカースト制にも直結しかねないおっかない議論でもあるのだ。(bk1より転載)

 「半神」萩尾望都
 中身は全部昔読んだことのあるものだけど、book offにあったので購入。
 収録の「偽王」は、昔読んだ時はなんか観念的な話だなーと思ったものだけど、例えば恋愛の寓意として読んでみると、深いなあ。萩尾望都は若い時からこんなに仕事ばっかりしてきて、恋愛とかするヒマあったんかいな。どうしてこんな感情の機微を描くのが上手いの。天才。
 今のマンガが全く面白いと思えない私は、萩尾望都あたりで止まってしまってる。ダ・ヴィンチ掲載の山岸涼子の新作バレエ漫画(今どき)も面白いぞ。

6月21日
 雑誌で笙野頼子の写真を見た。確かに、ご本人の言うとおり、福田和也に似てる!

6月16日
 「赤犬本」四方田犬彦
 私は中野翠が嫌いだ。別にこの人自身はカスみたいな中身のない文章しか書いてないので、嫌いでも好きでもないどうでもいい人なのだが、この人の「おっさん受け」ぶりが嫌いなのだ。この人が業界で生きているのは自分の実力ではなく、業界のおっさん達の愛あるサポートがあるからでは?とついつい訝ってしまう。だけど何でこの人はこんなにオッサンたちに好かれてるの?というのがずっと疑問だった。
 著者は中野氏と「お友達」らしく、呉智英を交えた3人で楽しく飲んだ時のことについて書いている。それを読んで、ちょっとだけ理由がわかった。
 中野氏はフェミニストが嫌いでバカにしており、戦争反対・平和憲法保持主張者を罵倒し、そしてオッサン二人と炉端焼き屋で飲むのに「新調の和服姿」で来る人らしい。保守オヤジを喜ばせる芸者みたいなもんだよな。

 男社会で泳ぐように生きている人より、この時代にあえて自分はフェミニストだと公言するジョディ・フォスターみたいな人のほうがずっとずっとカッコいい。結局のところ、どんなに偉そうなことを言おうが、批評家よりはものを創造する人の方が十万倍エライのだ。

 四方田犬彦はコミケに行って「ここに新しい群衆が誕生しているのだ」なんて他人事でまぬけな感想を持ったり、ジュリエット・ビノシュ(私は嫌いだ)を絶賛したあと「しかし『ダメージ』で経血にまみれてしまった彼女は、もう清純な役はやれない」などとたわけたことを言うなど、十分にオッサンだが、それでも書いてるものはけっこう面白いこともある。
 「映画批評を書くとき最も意識することは?」と聞かれて「あらゆる意味で徒党を組まないこと」と答えるセンスなんか素晴らしいと思う(でも、ホントかなあ?)。

 またこの人は私が常々感じていて、しかし誰も言ったことのなかった(というか私が聞いたことがないだけなんだけど)韓国人の在日フォビアについて、他の本で書いてたことがある(少しだけど)。それを読んで私は「そーなのよー。わかってくれて嬉しい!」とポンポン膝を打ったもんだ。全く、よく見ていると思う。

 でも田中康夫とのケンカ(?)に関しては、康夫ちゃんのほうが正しいと思うなあ。康夫ちゃんへの「返答」はかなりヤなやつぶりを発揮してます。こういう上から見下したような物言いはよくないと思う。「友達が○○と言ってる」なんて他人に悪口を言わせるのも最低。
 極めつけは内田春菊のファンらしいこと。ゲー。さすがは「カッコつけたオヤジ」(内田春菊って中野翠と並んでオヤジ受けする女の代表だよね。オッサンは内田春菊のことをラディカルだって思ってるけど、それはオッサンの安心できる範囲内での、もっといえばオッサンにとって都合のいいラディカルさに過ぎない。私から見ればラディカルでも何でもなく、男社会の権化みたいなもの)。それを知ってはもうこの人の本を読む気には金輪際なりません、って感じ。この人はボリス・ヴィアンに夢中になったことがあるかどうかで、女が知的かどうか判断するらしいけど、私は内田春菊を好きかどうかでその男が知的かどうか判断するね。

6月13日
 「ささいなことにもすぐに『動揺』してしまうあなたへ」
 このてあいの心理学本は好きではないんだけど、AERAの紹介記事が面白かったので読んでみた。
 あとがきで訳者(摂食障害だったことが売りの人らしい)がその友人にこう言われたと書いている。
 「あなたって外向的なHSP(この本の主題でもあり原題でもあるHighly Sensitive Personの略)だと思っていたのよ(略)実は私もそうなの」
 バカバカしい。本の中ではHSPのことを「かつては内向的という呼び名を付けられていたパーソナリティ」だと説明しているよ。「外向的なHSP」がアリなら誰も彼もHSPだ。この辺がこの手の本のキライなとこなんだ。「アダルトチルドレン」と一緒。
 ある人がアダルトチルドレンの集会に行ったら、「なんでオマエが」というような人がみんなアダチル(斎藤美奈子はこう略している)を自称していてうんざりしたと言っていた。そしてそういう人の方が明らかに「うるさい」自己主張の激しい困った人たちなのだ。

6月2日
 哲学の道を散歩していると、近所の人が桜の実を摘んでいた。食べられるんですかと聞くと、焼酎に漬けるんだと言っていた。ジャムにする人もいるらしい。「こっちの木が一番美味しいですよ。毎年そう。黒く熟してるののほうが美味しいんです」と教えてくれたので、つまんで食べてみた。ちょっと苦み走ってて甘酸っぱくて、おいしかった。

5月31日
 旧知のロシア人が日本にやってきたので一緒に食事をする。
 私は家族の中ではblack sheepであまり仲もよくなくて、といった話をすると、「友達はいるのか」と聞かれた。「けっ、またかよ。どうせ私が気難しくて偏屈で友達もできない人格だって言いたいんだろ」と思ったらさにあらず。家族以外に誰かサポートしてくれるような何でも話せる気の許せる人間はいるのか、と聞いていたのだった。感動した。ロシアに(パリ在住だけどな)生まれてたら、私は今までのように「オレは普通の女の子が好きなんだ。キミは普通じゃない」なーんて低脳まるだしなことを(何人にも)言われずにすんだのかもなあああ、なんて今さら思ったりして。言いたかないけど、外国っていいなあああ(低脳まるだし?)。
 ロシア人は今「豊饒の海」を読んでるらしい。

5月29日
 とうとうやってしまった。図書館で間違えて「斎藤澪奈子」のほうを取り寄せてしまったのだ。ポジティブ・シンキングの・・・。だって「黄金の母性主義」なんて、いかにも美奈子氏のほうが書きそうなタイトルなんだもん。表紙は澪奈子氏が子供を抱いている聖母風の写真。おまえは柳美里かー。

 「読者は踊る」斎藤美奈子
 たかが(?)雑誌の連載だというのに、めちゃめちゃ中身濃いなあ。「私はごくごく一般的な、そんじょそこらの読者である」なんて大嘘。この洞察力、尊敬申し上げます。

 「全共闘運動の失敗のひとつは下の世代に何か引き継ぐどころか、逆にそっぽを向かせてしまったことである」
 全共闘の人って「限りなく自己肯定的」だから、ものすごく元気だよね。今でも元気。そういう人たちが今の無気力な世代を作ったっていうのは、やっぱ何か間違ってたんやろな。うらやましいけどね、元気そうで。

 「『つくる会』の主張は戦前みたいなんだから、会の名称も『古い歴史教科書にもどす会』にしたほうがよかった」
 ちょっぴり「つくる会」シンパの友人と私との会話。「教科書にはアジア侵略のことは書くべきではない」「でも、将来その子供がアジアの人に戦争のことを責められても、本人は学校で習ってないから何のことかわからんよ。現に今でもそういうことは起こってる」「それは自分で(教科書以外の)歴史の本を読んで勉強しなかったその子がバカだったせいで、その子の責任だ」。わりとアタマのいいはずの彼にこんなことを言わせてしまうくらい、右翼思想って男の子には魅力的なものなんだなあ。私には全く理解不可能です。だいたい左翼と右翼の違いさえよくわからんし。そんな分け方やめたらー?と思うだけ。

 「あほらし屋の鐘が鳴る」斎藤美奈子
 「つくる会」の「自由主義史観」のことを「おやじ慰撫史観」だってさ。うまいこと言うなあ。
 でも慰撫されてるおやじって、一体誰のことなんだろう。
 「戦争論」を読んだ水木しげるがこんな感想を書いていたらしい。「あの時代の勇ましい気分が甦ってとっても楽しかった。でも自分はびんたがきらいなので、あの時代が帰ってくるようないやな予感がして、こわくなった」
 実際に戦争に行って、実際に前線で戦った人の気持ちって、こういうものなんじゃないだろうか。現在の風潮が戦争忌避的なのは決して「自虐史観」のせいではなくて、先代のこういう気持ちを受け継いでいるからなのではないだろうか。
 慰撫されているおやじとは、実際には戦っていない特権階級の人(とその家族)と、実際には戦争を知らない若者のことなのでは?

5月26日
 「朝まで生テレビ」テーマは教科書問題で、姜尚中さんが出てた。
 この人の最も説得力のあるところは顔やね。右翼の醜いオッサンたちとの対比が残酷なくらい。全国の知性派を標榜する女子たちのアイドル。美は力なり。

 韓国には美女は多いけど美男は少ないのに、在日にはけっこう美男がいる。スターにしきのだって、現地ではあまり見ない顔だし。風土が人の顔も変えるのか。実は在日だと言われるあの俳優もこの歌手も、ぼんやりした日本人顔よりずっと色気があってハンサムだ。

5月25日
 「増殖商店街」笙野頼子
 猫についての記述は涙なしには読めない。この、猫に対する恋慕と執着は内田百閨uノラや」以上やね。猫を男に置き換えてもそのまま読めるくらい。

 年とっても独身の人には、私の知る限り家族(親・きょうだい)に恵まれた人、家族と親密な人が極めて多い。
 この人の両親はわりと資産があって、34歳まで仕送りしてくれて、お金がなくて部屋で寝込んでいたら大泣きしてくれて、電話も毎日するらしい。ずっと独身なのは「ブスで肥満」(本人がそう書いてるんだよ)だからではなく、そういうこともあるのかも。自虐的な物言いが芸のようだけど。(ブンガク的主題とは全然関係ないけどね)
 この文体って、マルケス風なのかなあ。

(追記)
 あとで何冊か読んでわかったのだが、家族の問題はけっこうな「ブンガク的主題」のひとつみたい。
 「居場所もなかった」など、まさに「ブスの私小説」(本人がそう書いてるんだよ!)。斎藤美奈子によると私小説の特徴とは「読み易さを犠牲にして得られる切実さのおかしさ」だそうで、そういう意味ではこれはまさに私小説。消えてしまった(というか腐ってしまった)はずのジャンルがこういう形で生き残ってるとは。

5月20日
 冷房地獄がやってきた。図書館へ行ったら寒くて長居できず。今日など実に快適な気候で冷房など不要のはず。日本人の冷房好きはキチガイ沙汰と思う。真夏に長袖長ズボンを着なければ風邪をひくなんておかしすぎる。全員せーので冷房やめたら夏の都市の気温は数度は下がるはず。だいたい背広着たオヤジが基準になってるのが問題なんだよ。オヤジも若い女みたいにキャミソールと生足サンダルにすればよろしい。

 「スズメバチはなぜ刺すか」松浦誠
 めちゃめちゃ面白い!スズメバチの生態も面白いが、「子供の頃スズメバチに刺されて以来、その魅力の虜になった」という著者自身も興味深い(変わった)人だ。スマトラで木の上でハチに襲われ、頭髪に次々と潜り込んで来たハチを木の幹でこそげ落としながら逃げおおせた。あとで頭の中を調べたら「ハチの頭部18個と毒針のついた尾端21個が出てきた」そして「私は痛みに耐えながらも、執念深い攻撃ぶりに感心しながら樹上の巣を改めて眺めたのだった」。
 また、刺された時の痛みランキングを喜々として(としか思えない)語ってもいる。ハチの幼虫が口から出す分泌液を舐めてみたりもする。

 この本によると最大最強、無敵のオオスズメバチよりも恐ろしいハチがいるらしい。それは東南アジアに生息するツマアカスズメバチで、体長は2cmばかりで小さいけれども「その執拗さと凄まじさ、それに刺されたあとの痛みはオオスズメバチをもはるかに凌ぐものであった」らしい。
 弱々しく思えるニホンミツバチが集団でオオスズメバチを「布団蒸し」にして蒸し殺すというのもいい話だ。
 というわけで、ついついハチに感情移入してしまう。理系の人なのに何でこんなに文章うまいの。

 「新世紀の美徳」宮崎哲弥
 よく知らんけど「保守」なんでしょ?なんで文藝春秋じゃなくて朝日新聞社から出てるんだろ。
 階層の話が面白い。これによると、指導的階層(専門職、管理職の被雇用、企業役員)では、階層の「相続」が常態化しているそうで。戦前ははこの地位の継承性が高く、戦後のある時点までは低下傾向が続いていたが、1934年〜55年生まれの世代の地位継承性が急激に上昇し、戦前並みに戻っているということで。
 確かにね、私の親の世代より昔では、まあ高度成長期だし、エライ人でも父ちゃんは八百屋だったりしたけど、それより下を見渡してみれば、エライ人の親はやっぱりエライか金持ちなことがとてもとても多いんだよね。

 仏教徒だそうで、こんなことも書いてる。今生きることが無意味に感じる人が多いのは、決して(戦争推進論者の言うように)「死にがい」を喪失したからではなくて、「死」とはもともと意味を求めるものではない。
 「命を賭すに値するような物語や目的や価値が消え去ったから、生の充実感がなくなり、日本人の間にニヒリズムが蔓延してしまったと頻りに嘆いてみせるが、これは因果が転倒している。むしろ、近代の学校教育によって、人生には大きな意義があり、確固たる目標がある(べき)という過剰な信念を吹き込まれた人々が、本来そんなものなどなきに等しい生の実相に絶望して、ニヒリズムに陥っているのである」
 「あらかじめ、生死はまったき偶然の出来事であり、人生には究極の目的や積極的な意味や価値などないと悟っていれば、自分の本質が「空っぽ」であると知悉していれば、失望することもなければ、無用の虚無感に囚われることもない。坦々たる日常を「つかの間からつかの間へ渡る光」のように、あるがままに生きる素晴らしさを知ること。これこそが、ニヒリズムへの頽落を根元的に拒否するための無二の方途である」

 ちょっと、きれいごとすぎないか?それじゃ誰も働く人いなくなるよ。誰も働かななきゃ、ぬけがけして「オレだけ」働いて自分だけお金儲けしちゃうのが人間だろう。著者自身だって毎日マメに働いてるだろう。向上心もあるだろう。
 今のインドは仏教じゃないが、わりとこれに近い生き方をしていると思う。どうせ死ぬまで同じカーストなんだから、努力なんてする気なし。実にありのままに生きて、ありのままに死んでる。いくら貧しくても、文句も不満もまったくなし。だから人口ばっかり増えても国は豊かにならず。
 ところがインドは、あっと驚くIT革命で、えらい働き者の国になってしまった(もちろん一部のエリート階層だけだろうが)。伝統的に数学のレベルは高かったし、何しろ哲学の国である(数学も哲学みたいなもんだし)。いやー何があるかわからんね。

 「紅一点論」斎藤美奈子
 数年前、もとジェファーソンエアプレーンの人(男)がインタビューでこんなことを言ってた。
 「バンドに女性は1人だけでなくてはいけない。ひとつのバンドに2人以上の女性がいるのはバランスが悪い。誰が何と言おうと、そういうものなんだ」
 1人の歌姫とそれを支える男達という構図(キーボードだけ女、というパターンもある)というわけ。これを見て私は「まあ気持ちは分かるけど、やっぱり昔の人、フルいんやな〜」と思った。欧米のロックバンドではすでに当然のように男女が混成していたし、女が2人や3人のバンドもざらにあった。パートもボーカルやキーボードというありがちがパターンだけでなく、ドラムだけ女とか、リズムセクションが女とかいうことも普通になっていた。そんなの当然のことだった。まあ60年代の人なんだから仕方ないだろう(でも考えてみれば昔の人でもフリートウッドマックなんかは女2人だったぞ)。

 翻って日本の状況を見れば、いまだに軽音楽界の「紅一点主義」は健在で、ジェファーソンエアプレーン並み、つまり60年代レベルのままだ。ジュディマリ、ブリグリ、マイリトルげろげろ(嫌いすぎて書くのもおぞましい)などなど、「歌姫と男達」パターンばっかりだし、確かにそれらのグループの中にもう1人女がいると「バランスが悪い」のは確かだと思う。女が「チヤホヤされるもの」である限り、2人いたら張り合いになるか、どっちかが卑屈になるだろう。

 しかし、ライブハウスでアマチュアバンドなど見てると、日本でもいくらでもいるんである、混成バンドが。ドラムだけ女のバンドだっているのだ。別に欧米と変わりない。
 要するに音楽業界、産業界が「歌姫バンド」を抽出して売り出しているのではないか。産業界はオッサンの世界。結局はオッサンの好みで紅一点バンドは世に送り出されているのではないか。しかし悪いのはオッサンだけではない。供給されたものをなんの疑いもなく受け入れてしまう主体性のない受け手にもあるので、ああもう仕方ないなあ。

 かくいう私も以前紅二点バンドをしていて、みごとにつぶれたことがある。その時思ったね。もう二度と女とは一緒にやりたくないって。結局のところ日本の女は、表面はどうあれ、みんなお姫様になりたいわけだ。
 著者によるとアニメや伝記のヒロインは、例外なくお姫様(王女、皇女、大公の娘、博士の娘)だということで、考えてみれば確かにその通り。日本の女がみんなお姫様志向になるのも無理ないね。

 中年の女性でこんなこと言ってた人がいた。「小学生の時、よく009ごっこをしました。私がやりたかったのはもちろん003の役。でも私にまわってきたのはいつも001の役でした。ばぶーと言うだけ。悲しかったなあ」
 紅一点ヒーローものの中でもゴレンジャーやウルトラ警備隊はまあ「そんなもんやろ」と思うけど、サイボーグ009だけは納得できなかったのを覚えてる。「なんでひとりだけ女をふりまわしてんねん」「なんでいつも子守りしてるねん」「なんでバレリーナやねん」「なんで”フランソワ”やねん」・・・。

 「妊娠小説」ほど抱腹絶倒ではないものの、面白く読めました。
 時代の趨勢に逆らえずアニメの世界にも女の登場人物が増えたけど、その内容はますますマッチョに、ますます女嫌いになっていくばかりに見える。今どき「男のくせに」「男でしょ」「男として」なーんて死語が躍るのはアニメの世界と政治の世界くらいのもんやね。

5月15日
 セーターを洗濯機で洗ったら、つめこみすぎてウールがみんなフェルトになってしまった。

 「コミュニケーション不全症候群」中島梓
 オコゲや摂食障害についての話は私は「そりゃそういう面もあるけどさ、ちょっと違うよなあ」と思うし、いくら10年前の本にしても、当時でもこの解釈は少々フルイのでは、とも思う。でもオタク考察や「このごろ人々の行動がちょっとヘン」論はまさに慧眼だし、現在でも全く古くないばかりか10年後の今でも進行してる現象だと思う。でもこの自己愛の強さはなんとかならんか。読んでてうんざりする時がある、というか恥ずかしくなってしまう。

 むかーしこの人が絶賛していた「枯葉の寝床」を読みかけて、見開き2ページも読めずにギブアップしたことがあった(ただし森茉莉の小説はきしょいけど、エッセイは素晴らしい)。趣味が違うんだなあ。

5月11日
 爛漫の栗の花がもあっと匂う。

 「聖書の真実/聖書の旅」山本七平
 砂漠の神は厳しい。砂漠の神は試す神で、生贄を求める神で、ねたむ神で、常に契約履行を強いる神。ほっとけば草も生えないところの神さまは、やっぱり肥沃なインド出身の神(仏教には神はないけど)とはえらい違いだ。

 ところでうちの母は数年前にイスラエルに行っている。教会主催の巡礼旅行なので、立ち寄るのは当然聖蹟ばかり。イエスが生まれた場所だの、イエスが復活した場所だの、イエスが水を葡萄酒に変えた場所だのがみんな「聖蹟」として残っている。「そんな!そんな場所が残ってるわけないやん!デッチ上げに決まってる」そう思っていたけれど、それらの場所はたしかにデッチ上げには違いはないのだが、デッチ上げられてからすでに千数百年が経っているというものすごさ。

 この旅には最初私が母と一緒に行くはずだった。「イスラエルに行く?いいじゃんいいじゃん」と思ったが、よく聞けば、旅行中は毎朝5時か6時起床、毎日ミサ、移動バスの中ではお祈り、と文字通りの「巡礼旅行」だったのだ。それは私には絶対ムリ、というわけで、結局父親が同行することになった。ルルドにも立ち寄ったし、ちょっと行きたかったけど。死海にも浮かびたい!(もちろんそんな遊びは旅程にはなかった)

 そういうキリスト教の聖蹟だけじゃなく、イスラエルにはもちろんそれ以前のユダヤ教の遺跡も山ほどあるわけだ。3千年も前の遺跡がそのまま残ってるんだからなあ。日本じゃ弥生時代か?

5月5日
Ben Harper"LIVE FROM MARS"
 うーん、ますます泣き節が入ってよろしいなあ。でも"Sexual Healing"はいまいち。どうせなら"I Heard it Through The Grapevine"を演ってほしかった(この曲好きなのよ)。
 けっこうゴリゴリのロックに聞こえるけど、実はこの人イスに座って演奏してるのよね、楽器(ワイゼンボーン)の都合上。初めてTVで見たときはちょっとギャップがあった。
 2枚組だけどライブの密度としてはいまいちかなあ。前の編集盤のほうが良かったかも。でも"Woman in You"以降はいいねえ。
 短足なのも好感度高し。

 今って栗の花の季節なのかしら。外を歩いてると春風とともにふっと「あの匂い」がするんだけど。

5月4日
 「妊娠小説」斎藤美奈子
 小説の中に出てくる妊娠の描かれ方の、そのオヤジ的発想を徹底的に茶化していて極めて痛快。ヒザをポンポン打つ。
 特に第3章「妊娠小説のなかみ」と題打った分析は、まぶしいくらいに明晰でおかしい。こんなに胸のすく思いをしたのは久しぶり。
 私の大嫌いな村上春樹(「ザ・キング・オブ僕小説」と揶揄されている)も大江健三郎も吉行淳之介もケチョンケチョンで、ほんっと楽しい。
 「太陽の季節」の中で女に妊娠を告げられた主人公は(このシーンは「受胎告知」と呼ばれ、妊娠小説のハイライトとされている)、いきなりウクレレを取り出して歌い出すらしい。それもヨットの上で。時代やねえ。

 鴎外の「舞姫」がほとんどの高校教科書に載せられている、というのはちょっと驚き。こんな話なんもおもろないし、オヤジ好みすぎる。高校生が読むなら「高瀬舟」くらいのほうがいいと思うけど。

 CD店でベン・ハーパーの新譜2枚組ライブを試聴する。うーん盛り上がってる盛り上がってる。うーまんうーまん♪早く全部聞きたいけど3600円。同居人Aが購入するのを待つ。

5月3日
 昭和天皇と中原中也と岸田今日子と宝田明と小西克哉と田中裕子とダニエル・デイ・ルイスとアンドレ・アガシは、誕生日が同じ。つまりみどりの日の4月29日。だからどうってことはないんだけど。

5月1日
 スズメバチの図鑑を見る。オオスズメバチと並ぶとミツバチが実にいたいけでかわいい。たった十数匹のオオスズメバチが、何万匹ものミツバチを軽々と虐殺してしまうのだ。杉浦明平氏は「B29とわが日本軍のあわれな零戦のよう」と形容しているが、たしかにめちゃめちゃ精悍なかんじ。決して外では会いたくない。

〜2001年4月へ

HOME > 過去の日記