花猫がゆく

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女がつらい韓国映画

 ハッピーエンドの韓国映画ってあるんだろうか。

 韓国の映画やドラマなど見ると、どれもこれも、うんざりするくらい、女の人が苦労して苦労して、苛められて、苛め抜かれる。それだけなら日本のドラマでもよくある苦労物語だ。そして結末ではその苦労が実を結んで主人公は幸せに、にっこり笑って大団円、というのが日本での「お話」のパターンだ。私たちは最後には必ず水戸黄門なりが出てきて可哀想な主人公を助けてくれるのを期待する。それがお話の「収まり方」というもので、それでこそ私たちは安心する。

 ところが韓国映画では、主人公は苦労した挙句の果て、最後には何といきなり死んでしまったりする。その上その死がストーリー上あまり意味がなかったりする。「えっ、なんでそこで死ぬの?」という感じ。

 見る映画見る映画みんなこのパターンだった。日本のお話のパターンに慣れている私たちはびっくりする。「なんだこれじゃ全然オチもなんもないじゃないか!」と怒りが込み上げてきたり、気が抜けたりする。

 だがこれは自文化中心主義というもので、韓国ではこれが人心にハマるのである。たしかにオチがない。だが韓国ではこれでいいのである。

 思うに、韓国ではこの「最後に死んでしまう」というのがカタルシスのポイントなのだろう。ここで「アイゴー! なんて可哀想なんだー!」と泣きが入ってスッキリするのだろう。この辺が日本人のメンタリティとはかなり違うところな気がする。

 例えばお葬式なんかにしても、日本では「しめやかに」という形容詞がよく使われるように、静かに悲しむのが普通である。ぎゃあぎゃあ泣いてる人がいれば「取り乱されて……」という話になる。一方韓国では、もうここぞとばかりに泣き叫ぶ。それは全く異常なことではなく、どちらかといえば「形式」とか「通過儀礼」に近いものがある。「ここは泣くところ」なのである。だから「泣き屋」という商売も成立する。

 ついでに言うと、映画で苦労する主人公はほとんどの場合女性であることも特徴のひとつだ。「グリーンフィッシュ」なんかはこのパターンで主人公は男性だったけど(そういえば、この映画の主演男優が先日NHKハングル講座で取材されてた。この人、ヤワラちゃんそっくりだと思うのは私だけだろうか。ヤワラちゃんはミヤコ蝶々そっくり。とすると、この人もミヤコ蝶々似ということに…)。

 ◇よくあるパターンその1
 時代劇に多いが、ある娘が嫁に行く。ところがこの娘は石女であって、子供ができない。それで姑に苛め抜かれる。この苛め方も半端でない(なぜかここにあんまり夫は関与しない。けっこう知らんぷりをしている)。そして子供ができないのは、夫が他に女を作っていい十分な理由になる。夫は新しい妻を迎え、もとの妻は単なる小間使いとして姑にこき使われる。なんとなれば「子供もできないくせに!」と罵倒される。同じ家の中で夫と新しい妻はいちゃいちゃやっている。妻は健気に耐え忍ぶ。そして弱りきって死んでしまう。

 ◇よくあるパターンその2
 主人公の娘は、家は貧乏だがたいへん勉強ができる。だが大学にいくのはあきらめ、弟を大学に行かせるために都会に出て働くようになる。弟より姉のほうがずっと頭はいい。だが弟のために身を粉にして働く。弟は姉のおかげでのうのうと大学に行く。姉は昼は働いて弟を大学にやりながら、夜は夜間大学などに通う、という苦労物語。これは以前韓国で「おしん」並に視聴率をとった人気テレビドラマのストーリー。結末はどうなったか知らないが…。

 韓国通の人たちによると、最近はこのパターンも変わってきているそうだ。映画もエンターテイメント性の強いものが増えてきたらしい。「シュリ」なんかは良かったと言う人も多い。でもやっぱり、見る気あんまりしないなあ。


(2007年4月追記)
 この文章を書いてから、韓国映画の状況はずいぶん変わった。韓国映画はめちゃめちゃ進化して、ほんとうに面白くなった。でもまだ、ここで書いたような「悲劇性」は韓国映画に生きていると私は思う。それをただ単純に描くことはあまりなくなったが、ひねった形ではたくさん出てくると思う。韓国人はあんなに明るいのに、と思うと面白い。

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