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花猫がゆく

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韓国覚え書き

韓国エッセイ

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過去の日記

ある在日おばあさんの話

 おばあさんは昭和17年、18歳の時に戦時中の日本に来た。親の決めた人と結婚するためだった。正確には1年前に韓国で結婚式は挙げていたのだが、1年間は夫と別々に住んでいたので、一緒に暮らすために日本へ来たのだった。それから何十年も故郷へは帰ることができなかった。

 終戦後多くの在日朝鮮人は半島へ帰ったが、彼女は帰らなかった。夫の母はぜひとも帰りたがり、荷物までまとめていたが、夫の方がそれほど乗り気ではなく、だらだらしているうちに期を逸してしまったのだ。彼女も特別帰りたいとは思わなかった。朝鮮戦争が始まった頃には「日本にいた方がまし」という気になった。第一、半島に行くことは不可能になってしまった。

 朝鮮戦争で彼女の母親は亡くなった。北朝鮮からの軍に殺された。北からの軍には半島南端近くまで追いつめられたが、アメリカ軍が来て北朝鮮の軍を追い返した。だから彼女は今でもアメリカが好きで共産党は大嫌いだ。


 おばあさんの生まれた山村には小学校がなかった。村で初めての学校はキリスト教の宣教師が建てた4年制の小学校で、彼女はそこの1期生になった。きょうだいの中で自分が一番最初に学校へ通った。
 彼女が行った学校は、後にも先にもこのカトリックの小学校だけだった。

 おばあさんの祖父は漢方の薬局をやっていて教養のある人だった。漢文も読めた。
 薬局は当時は医者のようなもので、家は村一番の金持ちだった。でも祖父は息子(おばあさんの父親)には薬局を継がせなかった。村の人たちは人間の病気を治してやってもお金を払わず、家畜である牛を治してやるとお金を払う、ばからしくてやってられん、と祖父は言ったらしい。
 農家にとっては人間より牛のほうがお金を産む大事なもので、お金をかけるのに値するものだったのだ。

 ちなみに、牛には薬はあまり使わない。体が大きいので薬も大量にいるからだ。牛にはもっぱら鍼を使うらしい。そのほうが即効性もある。薬などでチンタラ治療しても「すぐ直せ」という要求には応えられない。

 そういうわけで、おばあさんの父親は薬局を継がなかった。だが教育だけは十分に受けた。「お父さんは勉強ばっかりしてた」とおばあさんは言う。だが仕事らしい仕事もせず、子供もたくさんいたので、祖父の財産はだんだん減っていった。人を使って農業をやっていたが、その土地もひとつ売り、ふたつ売りしてなくなっていった。

 だが今でも、父の長男つまりおばあさんの兄の家には、生薬を入れるための小さな引き出しのたくさんついた木製の薬入れが残っている。長男はもうとうに亡くなり、子供の代になっているのだが、まだ祖父の家と同じ場所に住んでいる。

 農家の仕事を見ていたので、おばあさんは植物には詳しい。今でも山菜採りには毎年出かけるし、マンションのベランダにはちしゃも植えている。 おばあさんだけでなく、朝鮮の昔の人はみんなこんな感じだ。

 庭が広かった頃はいろいろなものを植えた。小さな畑にはトマト、キュウリ、唐辛子、にんにく、ねぎなど。果樹もいろいろ植えたが、キウィフルーツはあまりうまくつかなかった。甘夏の木は大きな実がよくなっていたが、家の新しい持ち主が切り倒してしまった。
 今年は膝が痛くて山菜採りにはいけない、とおばあさんはこぼしている。

おばあさんが生まれた頃、両親はカトリックに改宗した。母親は自分にキリスト教を教えてくれた人に「霊魂を救ってくれた」と、とても感謝していた。父親もいつも、神様によって自分は魂を救われた、と言っていた。
 カトリック信者だった父親は、男尊女卑の根強い朝鮮半島で「男でも女でも、みんな神様がくださった子供」と言ってくれた。だから学校にも行かせてくれた。

 両親は父が14歳、母が17歳の時に結婚した。今の韓国では考えられないが、昔は妻の方が3つ4つ年上なのが普通だった。そして女が男を育てるのだ。そのほうが子供もすぐできて都合がいい。

 おばあさんの15歳年上の姉は、早くから日本に渡っていた。日本で商売をしていた人に誘われて日本に行くことにしたのだ。まだ20歳そこそこだった。日本に渡ってしばらくは父親と手紙のやりとりがあったが、そのうち連絡も途絶え、なしのつぶてになった。父親は「娘を一人取られた」といつも悲しんでいた。
 姉は日本で服飾の仕事をしていた。日本の都会は故郷の山村と比べたら別世界だったことだろう。


 おばあさんの夫は母親に大事に育てられた。たった一人の息子だったからだ。姉がひとりいたが、彼女は16歳まで朝鮮に置いておかれた。大きくなってから日本に来て再会した姉とも、夫は仲が良かった。
 夫は大切に育てられたせいか、人に使われるタイプではなかった。いつも自分で商売を始め、失敗も多く繰り返した。高度成長期には株で大儲けした。

 夫の父親は終戦まぎわ、船上で爆撃にあって亡くなった。商売の船だったので戦死ではない。お墓には今でも「一九四五年大阪湾にて戦災死」と彫り込まれている。

 夫は戦争には行っていないが、徴兵検査には行った。生まれてすぐに日本に来たのだが、それでも郷里の釜山まで行かねばならなかった。まもなく戦争は終わったので、結局出陣は免れた。
 帰りの電車の中で彼はルターの本を読んでいて、憲兵にとがめられた。
 「わしはマルチン・ルーテルの本を読んでただけなんや。そやのに引っ張っていかれて、大変な目にあった」

 浮島丸には知り合いもたくさん乗っていた。ただ、知り合いの中には命拾いした人もいる。浮島丸には朝鮮人労働者がぎっしり積み込まれていたのだが、ただ働き同然の重労働に嫌気がさして、出航前にこっそり逃げ出したオヤジがいたらしいのだ。

 多くの在日1世と同様、おばあさんももう韓国で暮らす気はない。旅行としてなら年に何度も帰っているし、韓国にいる親戚とも親しくしている。だがもう住みに帰る気はない。向こうには親戚はいても、友達はいない。生活感覚もかけ離れてしまっている。今さら帰っても楽しいことはない。

 友達とは、やっぱり在日のおばあさん達なのだった。

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