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花猫がゆく

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キムヨンジャはマリアカラスだ 〜韓国人はなぜ歌がうまいのか〜

 NHK「ふたりのビッグショー」でオペラの貴公子錦織とキムヨンジャが共演していた。誰が考えた取り合わせか、コテコテだが意外に力が入っていて(入りすぎなくらい)見応えたっぷりだった。

 錦織は普通にしておれば結構なハンサムなのに、歌い出すと顔がマンガみたいにゆがむのでつい笑わずにはいられない。以前テレビでクイーンの曲を歌ってたことがあって、フレディ・マーキュリーが高すぎて歌えないところまで(若い頃は出たんだろうが)キンキンの声で熱唱していたのを思い出した。異業種交流が好きな人なんだろう。

 それにしても、キムヨンジャの歌の上手さよ。
 驚いたのは、キムヨンジャが最初アカペラで歌い始めてあとからフルオーケストラが入るという構成の曲があったことだ。音程によっぽど自信がないとこうゆうことはできない。なんてったってクラシックのオーケストラ、よく張り合えるよ。

 そのあとはキムヨンジャが真っ赤なドレスを着て「カルメン」の一場面を演じるという恐ろしい企画。バックには十数人のオペラ歌手がいるというのに、全く遜色ないどころか、どんなオペラ歌手よりもその感情移入は激しく、またその歌唱力や声の伸びといったら、すごいのだ。重ねて言うが、十数人のオペラ歌手を前にして。しかもあの演歌唱法で!

 「カルメン」をやってたからというわけではないが、私はしきりにマリア・カラスを思い出した。あの、これでもかと言わんばかりの津波のような感情移入、中庸って何?と言わんばかりのぶつけるような表現、押せ押せの迫力。テクニックのみの「歌の上手さ」とは決定的な違いがあって、オペラや演歌がぜんぜん好きじゃなくても、ついついつい、引き込まれてしまうのだ。

 何もキムヨンジャだけが特別なのではなくて、韓国人が歌を歌うと、津々浦々の一般人にまでそういうテイストがある。感情をドバッと表に出すことに対して、何のてらいもない、というような。「秘するが花」を美徳とする日本人にはできないことだよなあ、と思ってしまう。

 となりで一緒に「ふたりのビッグショー」を見ていた母に、「韓国人は何でみんな歌が上手いの?」と聞いてみた。母が言うには、こうだ。

 韓国人はよく遊ぶ。特に、韓国人の女性はよく遊ぶ。日本人が遊ぶ場合には、映画を見に行くとか演芸を見に行くとか、何かをみんなで「鑑賞」しに行くことが多いが、韓国では違う。すぐにみんなで集まっては、歌えや踊れやで楽しむのだ、というようなことを母は言った。

 私にも覚えがあるぞ。子供の頃、在日のオバチャン達は教会の大広間に集まり(教会というのは、ほんとに有効なコミュニティなんだよ)みんなでつくったごはんを食べ、そのあとは誰からともなく歌い出したり、立ち上がって踊り出したりしたもんだ。隅に置いてあるチャンゴ(鼓をばかでかくしたような太鼓。肩に掛けて細いばちで叩く)を取りだして、リズムを叩きながら踊る人もいた。盆踊りのように統制されたものではなくて、おのおのが好き勝手にやってる感じ。ほんとに楽しそうだった。

 韓国ではそんなふうに歌や踊りが身近にあるので、みーんな歌や踊りが上手いというわけらしいのだ。

 そういえば、誰だったか西洋文化の学者が「日本の文化は『観る』文化だが、西欧の文化は『演る』文化だ」というようなことを言っていた。日本では鑑賞の仕方が問われるが、西欧ではパーフォームのやり方が問題とされる、というわけだ。そう言う意味では韓国は西欧型といえるのかも。まさに東洋のラテン。

 文化芸術で言えば、私は韓国の映画は今のところダメだと思っている。映画のように、綿密に完璧にひとつの世界を構築しなければいけないようなものは、きっと得意じゃないんだろう。何しろ大ざっぱだから。だけど一発集中激情型の芸術にはすこぶる強いと思う。
 早く韓国の歌手に世界で大活躍してほしいもんだ。


(2007年4月追記)
 前にも書いたけど、韓国映画は本当に面白くなった。日本映画は遠く及ばないレベルだと思う。テレビドラマになると、もう日本とは雲泥の差だろう。「見せる」「盛り上げる」という意識がぜんぜん違うもん。

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